「マッドマックス2」「デス・ロード」、ジョージ・ミラーの必勝メソッド

「マッドマックス2」(81)を自分が初見したのは高校1年生の時。二番館上映の三本立て興行のうちの一つで、正直本命でもなく、そもそも私はその時点で一作目「マッドマックス」(79)を観てもいませんでした。
幸い「2」は前作を観ておらずともまったく問題のない内容で、アメリカでは一作目の興行がそれほどでもなかったので、タイトルからマッドマックスを外し「THE ROAD WARRIOR」のタイトルで公開され、大ヒットとなった経緯もあるくらいです。

でまあ、3本立て600円の安物二番館の椅子は座り心地が悪く、いつもお尻が痛くて3本目ともなると集中力が保てなくなるのですが、「2」に関しては、冒頭のナレーションから一気に作品に引き込まれ、気がつけば思いっきり前のめりになり、尻の痛さも感じず、かぶりつき状態で作品世界に没入していたのを今でも強烈に覚えています。

自分はヘビーな映画ファンという事でもなかったし、怪獣やSF、ホラーといったジャンル映画しか観ない少年でしたし、映画から強烈な何かを受け取る機会も正直ほとんどありませんでした。そんな中で突然出会った「マッドマックス2」は、高尚なテーマはおろか、セリフすら少ないアクション映画でしたが、感性に凄く響いた映画でした。

そこに感じた自分なりの面白さというのは、とにかくヒーロー神話として抜群な筋立て、衣装から小道具やら車やらの醸し出す世界観の新しさ&格好よさ、あとは荒野の一匹狼を演じるメル・ギブソンの佇まいでしょうか。

で「1」を観ずに「2」から入ってしまった者からすると、ポスターの先入観があるのに、本編始まって出て来るマックスは若造然としていて、おいこれ別人じゃね? この人が主人公なの?という違和感がまずありました。それが物語が転がる過程で、徐々にマックスがポスターのような荒々しい顔になっていく訳です。最後は完全に別人のルックへと変貌し、彼は伝説の男となるのでした。わお!すげー!

近年、シリーズ最新作「怒りのデス・ロード」が公開され、その内容にも圧倒されたのですが、そこでようやく分かったのは、この“マックスの変貌”に代表されるものが監督ジョージ・ミラーの作劇における必勝パターンなんだな、という事です。
娯楽映画にとってキャラクターや状況の変化を描くのは当然ながらセオリー。「スターウォーズ 新たなる希望」では田舎の平凡な青年が大きな事件に巻き込まれ、秘めた潜在能力を開花させ、最後には表彰台でお姫様から祝福されるお話です。「ターミネーター」は平凡なレストランのウエイトレスが、人類の命運を担う存在になるお話です。なんだこの冗談みたいなストーリー?w

「マッドマックス2」の場合、冒頭インターセプターを駆り、相棒ドッグを連れて登場したマックスは、そのいずれも失い、別人のような満身創痍状態となり、体ひとつで荒野に消えます。この最初と最後のダイナミックなギャップがこの作品の面白さの核だと思います。
そして外見やとりまく状況が大きく変化するのに、マックス自体は変わらない、特に人間として成長する訳でもないという「変わらなさ」が良いアクセントになっています。最高の形で黒澤明の「用心棒」をアレンジした感じですね。

そしてこれだけで終わらないのがこの作品の面白いところで、重要なサブキャクター、ブルース・スペンス氏演じるジャイロ・キャプテンはコミカルな小悪党として登場し、マックスの相棒を名乗って付きまとい、やがて善人たちの協力者となり、戦いでジャイロコプターを失うも生還し、最後は精油所のリーダーになります。主人公の内面が変わらない分、ジャイロ・キャプテンがそれをきっちり補完しているのが見事で、超シンプルなストーリーに起伏を与えています。夜逃げを思いとどまるシーンは、彼の善人性をさらっと観客に絵で見せる、とても上手いシチュエーションですね。

またマックスとジャイロ・キャプテンの関係性の変化。最後の最後に二人がアイコンタクトを交わすカット。おそらくこの一瞬だけの事でしょうが、ジャイロ・キャプテンは念願であるマックスの相棒に昇格します。悪党をやっつける部分よりも、ここが作品中最大のカタルシスではないかと思えます。まったくもってジャイロ・キャプテンというキャラクターの有効活用っぷりには唸るしかありません。
更にダメ押し、大オチとして用意されてるのがエミル・ミンティ氏演じる野性少年の変貌です。劇中一切言葉をしゃべらない獣のようなこの少年が、実はナレーターで、しかも「偉大なる北部族の長」になっちゃうという。キャラクターの変貌を描く変化球シチュエーションの極北ではありませんか?!

一見ストーリーのない、闘争に明け暮れるB級な筋立てなのに、随所にキャラ(その距離感)の変貌を上手いさじ加減で入れ込んだ「マッドマックス2」。それこそがこの映画の真に凄いところだと思います。こういう核があり、そこへ新しい世界観の創造や、魅力的な悪役たち、激しいアクションが盛られているという抜け目のない作品なんですね。

あと余談ですが、途中でインターセプターを破壊するナイス判断。これも激賛ポイントです。公開時点でもおそらくとても人気のあるヒーローマシンだったでしょうが、基本、敵を後ろからあおって突付く事しかできませんから、マックスが最後までインターセプターに乗ってたら、見世物としてとても弱いものになったでしょう。ヒーローが黒いスーパーマシンからトレーラーに乗り換えるのも一つの大きな変化ですし。

で、そんな「マッドマックス2」と同じ事を拡大再生産したのが30数年後に誕生した「怒りのデス・ロード」。この作品もストーリー性は希薄ですが、キャラクターたちの変化はあざといくらい随所に出てきます。
ワイヴス4人それぞれが終局までに変化を遂げ(変化の余地のない完成された人間スプレンディットは早期死亡)、ニュークスは適切な死に場所を見つけます。マックスは物語冒頭で車を失い、装備もいろいろ変遷し、最後には自分の名前を取り戻します。これらが矢継ぎ早に描かれる終盤は、やり過ぎ感すらあるのですが、観ている側がカタルシスとして受容できるバランスなのです。これが一番の驚き。いやしかしここまでハッピーエンドの釣瓶撃ちって他になかなか見当たりません。

他のキャラクターたちがどんどん変貌を遂げる中、フュリオサはウォーリグと義手を失い傷だらけとなり、物語冒頭から外見的に大きく変貌しますが、これといった内面の成長はありません。当初ゴールの変更を余儀なくされますが、結果的にはホームに辿り着き彼女は初心を貫徹します。この辺は「2」のマックス同様、中身だけは変わらない面白さがあります。そして「2」のジャイロ・キャプテンとマックスと同様に、アイコンタクトという形で、キャラ感の距離の縮まりだけが一瞬描かれ、それがまたカタルシスとして機能します。

「怒りのデス・ロード」が公開されるまで、自分の中で「2」がなぜこんなに面白いのか、なかなか把握できませんでした。で、ようやく同じ面白さを持つ両者を並べてみて、なるほどそういう事なんだな、これこそがジョージ・ミラーの作劇メソッド、必勝パターンなのかも?と少し理解できたような気がします。
キャラの変化を心地よく描けば、混み入ったストーリーやドラマはそれほど必要ないし、また少々の展開上の矛盾にも観客は目を瞑ってくれる。そういう事なのかもしれません。

話しは長くなりますが、最初の「マッドマックス」にしてから、ただの復讐物語とは異なった構造で、やはりキャラクターの変化に関する映画です。黄色いパトカーに乗った幸福な家族持ちのマックスが、家族と親友を失い、黒い車に乗り換えて虚脱状態へと至る話です。また裏主人公ジョニー・ザ・ボーイ側から見ると、ギャングの見習いだったのが、警官殺しに立会いギャングの正式メンバーとして認められ、悪党として一本立ちしたところで狂った警官に処刑される話です。
低予算の素人映画ながら、キャラクターの変化に力点が置かれているのはなかなか凄い事で、この辺はジョージ・ミラーの持って生まれた嗜好、資質なのかもしれません。

で、「マッドマックス サンダードーム」。一般的な不評に関しては、こうやって挙げてきたジョージ・ミラー流メソッドの肝であるキャラクターの変化が上手く機能していないせいではないか、と自分は思います。ディテールの面白さはさておき、変化しそうでしない人、唐突に変化する人、諸々ぎこちないところが目立ちます。ラクダが牽引する車に乗った長髪のマックスは、身ぐるみはがれ、散髪され、またも荒野に体ひとつで放り出されます。基本的には「2」でやった事の繰り返しなのですが、サブキャラクターの配置のまずさはあるでしょう。まだまだ日本語に訳された情報が少ないサンダードーム。ここを解明する事で、いよいよジョージ・ミラー流マッドマックス必勝パターンの全貌も見えてくるのではないかと思っています。また「ベイブ」や「ハッピーフィート」も併せて考察しなければならないですね。

とまあ長々と書いてしまいましたが、なんだかスッキリしました。是非このキャスト来日のタイミング、「マッドマックス2」をあらためて観てください。ほんとにこれ、変化にのみ注力したキャラ描写、微かなストーリー性、豪快な見せ場、の黄金比を達成した凄い一例ではないかと思うのです。